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くしゃみ

「くしゃみをしたら、噂されてるって言うじゃないですか」
 後輩の辻は突拍子もなく、切り出した。
「俺、今からくしゃみします」
 辻はポケットティッシュを一枚取り出し、くるくる巻いて細いこよりを作った。そして、おもむろに鼻の穴に突っ込んだ。
「くしゅん」
 実に不自然にくしゃみを出した辻は、どうだという顔でこちらを見ている。どうしたというのか。
「先輩、俺の噂を聞いてきてください」
「は?お前が行けよ?」
「本人には言いにくいでしょう」
「なんで俺が……」
「先輩、一生のお願いです」
「お前は一生分のお願いをこんな阿呆なことに使うのか」
 あまりのくだらなさに笑えてくるから、つい辻の言うことを聞いてしまう。
 俺は部室を出て、放課後の人が疎らな廊下を歩きだす。
 
 最初に見つけたのは辻の担任の石岡である。俺は疑問に思っていた。一人で歩く人間が噂などするものかと。
「石岡先生、さっき辻が」
「辻か。さっきクラスメイトの川崎が噂してたぞ」
「なんですと?」
「何を言ってるかはわからんが、辻ユキオの話だったぞ」
「その川崎さんの特徴を教えてください、どっちに行きましたか?」
 帰り支度をしていた川崎なる人物は可愛い顔の女子生徒で黒髪で蛸足の生えた林檎のキーホルダーを鞄につけているらしい。センスが悪そうだが、顔が可愛い。看過できぬ情報をもとに、俺は下駄箱のある一階廊下まで駆け下りた。

 望みは薄いと思っていたが、川崎らしき女子はもう一人の友人であろう女子を連れて、話し込んでいるところだった。下駄箱裏に隠れ、盗み聞くことにする。
「今日の辻ユキオ……」
 奇跡的にまだ阿呆の後輩の話をしている。つまり、噂をしている。俺は興奮しつつ、耳をそばだてた。
「フルネームで呼ぶのはおかしいから、やめたげなよ」
 川崎さんは常識人らしい。
「辻ってクラスに5人もいるじゃん」
 それはフルネームも致し方ない気がした。
「先生もクラスを別けられなかったもんかねえ」
 何度も下駄箱裏で頷いてしまう。5人は多い。
「でも、辻がさ……」
 運動場から聞こえる運動部の掛け声によって大事なところが聞こえない。
「辻君、交友関係広いよね」
 くすくすと笑う川崎さんは優しい女子であることが分かった。しかし、後輩である辻の噂の内容がわからない。俺は仕方なく、川崎さん達の前に顔を出した。
「すみません。辻ユキオの友人の佐田です」
 俺のネクタイの色から、先輩であることを把握した川崎さんは不思議そうに俺を見る。正面から見ても可愛い。何故か、辻が憎くなる。
「辻の噂をしてませんでした?」
「してましたけど?」
「内容をお聞かせください」
 俺が深く頭を下げると、川崎さんはおずおずと口を開いた。
「ええと、辻君が後藤先輩に呼び出しを受けたって」
「後藤って、後藤番長?」
「そうです、番長スタイルの後藤先輩です」
 時代錯誤な番長を名乗る後藤ジュンは俺のクラスメイトであり、友人の一人である。
「喧嘩?」
「いえ、そこまではわかりません」

 俺は軽く礼を言い、後藤にラインを送った。
「辻ユキオを呼び出した?」
 速攻で「イエス」と伝えるウサギのスタンプを後藤は返してきた。可愛いチョイスに引きつつも、俺は返信する。
「どうして?」
「マナミさんが呼べと言うから」
 マナミとは愛美。後藤の年上の彼女である。昔、相当の悪だったと石岡が語っていたことを思い出す。
「焼きを入れに?」
「マナミさんが辻の噂を聞いたらしくて、話して来いって」
「辻は何をした?」
「今、聞いてる」
 ラインの受信音とともに、件の辻の写真が送られてきた。怯える表情が見て取れる。焼きを入れるのはマナミでなない。後藤か。
俺は急いで四階の部室まで戻った。
「辻、無事か?」
 『オカルト研究部』とおどろおどろしく書かれた引き戸を開け放つ。リーゼントの後ろ姿の後藤を端に追いやった。
「先輩!」
「辻、無事なのか?」
 俺は辻に駆け寄った。辻は無傷だ。
「聞いてください!後藤先輩の彼女のマナミさんが俺の遠い親戚だって」
「はぁ?」
「ウワサらしいです」
 俺は膝から崩れ落ちた。


 ラインの受信音がまた鳴った。
「将来、親戚になるかもしれない」
 ウサギが照れくさそうに頬を染めるスタンプも同時に送られてきた。
 俺は汗だくになった額を拭き、後藤に返信した。
「まだ噂だろうが」