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雨の日

 いつごろから、雨音は激しくなっていたのか。大きな雷の音で目が覚めた。
ぽつりぽつりとベランダの柵を打つ雨をベッドに横になって見ていたのがつい先ほどのことのように思える。窓の外は大粒の雨に変わっている。
 壁掛け時計は17時をさしている。30分ほど寝ていたらしい。バケツをひっくり返したような雨、そんな言葉を思い出す。ベランダの屋根から滝のように流れる雨。最近はゲリラ豪雨というのだろうか。都会で暮らし早10年。帰り道に急に見舞われるそいつを部屋で見るのは少し贅沢な気がした。
 叩きつける雨の落下はとかく早い。点が線に見えた。
取りつかれたように、この雨を見つめてしまうのはあの日を思い出したからだ。


――蒸し暑い夏の日、私は出張先で夕立に遭った。
「これじゃ、雨宿りの意味がないね」
 寂れたバス停の庇の下、走って現れた少女はまだ若かった私に親しげに話しかけてきた。短く切った髪は雨で顔にへばりついており、Tシャツとハーフパンツもびしょ濡れだ。一見、少年のように思えるその子だが、胸の辺りがわずかに成長し中心の尖りが見て取れた。私は成長期の体から目を離し、自分の胸元を確認した。高いブラウスは下着を透かすことなく、私の胸を守ってくれていた。
 ここまで濡れてしまうと、たしかに雨を凌ぐ意味などないように思えた。
「でも、酸性雨かもしれないわ」
 使いなれない言葉を使って、私は会話に乗ることにした。
「え?これが全部、悪い雨なの?」
 少女はTシャツの水気を絞りながら、顔を歪めている。それに倣うように、私もブラウスをスカートから引き出して、思い切って絞ってみた。生温い滴が足元に落ちていく。
「良い雨なんてないのよ」
「そうかな?」
「現にびしょ濡れで、私たちは困らされているじゃない」
「私は大雨も好きだけどな」
 その言葉を聞いて、雨が喜ぶように激しさを増した。止む気配はまだない。またバス停にバスが来る気配もない。本当にあと10分でバスは来るのだろうか。
「どうして?」
 この大雨はお前のせいなのかと恨みがましい気持ちで問いかけた。
「だって、こうしてお姉さんに会えたもの」
 急に投げかけられた甘ったるい言葉に、顔の筋肉が引きつった。どこで、そんな口説き文句を覚えてきたのだろう。首を傾げると、少女は得意気だ。「良い雨でしょう」と言わんばかりだ。
「その言葉は10年先まで取っておきなさい」
 殺傷力の高い武器になるから。年長者の言葉に、今度は少女が首を傾げていた。きっと少女が愛する人は幸せになることだろう。
 素直で可愛らしい少女の言葉でこの雨が愛おしく感じられた。しかし、それも束の間。定刻通りにバスがバス停に滑り込んできた。
「それじゃあね」
 少女に軽く別れを告げて、私はバスに乗りこんだ。
 濡れたスカートで座席に腰かけていいものかと、つり革を握り締めていると運転手が「どうぞ、お掛けください」と伝えた。言葉に甘え、最後列の座席に座る。
背後の窓から遠ざかるバス停を覗こうとしたが、曇っていて何も見えなかった。
 あの子はちゃんと家に帰れただろうか。
 少女を一人残してしまったことを、今更バスの中で後悔していた。


 雷鳴がまた私を現実へと引き戻した。雨はまだ降り続いている。暗いままの部屋で、あの日の記憶は妙に鮮明に思い起こされた。今日もあの日と同じように雨を見つめていたからかもしれない。憎たらしくも、愛おしい雨だった。
 思い出に浸っていると、勢いよく玄関の扉が開かれた。
「ただいま」
 びしょ濡れになって彼は帰ってきた。
「良い雨だったね」
「どこが?」
 彼は怪訝な顔で、濡れた靴下を脱いでいる。
「だって、あなたに会えるもの」
「仕事から帰ってきただけだけど?」
「あなたに言ってないわ」
 この子に言ったの。
 そうして、私は自分のお腹を撫でていた。