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スープ!

 痩せて鶏ガラみたいな僕の彼女。
自嘲気味に「私は鶏ガラみたいでしょ」と言っていた。
「そんなことないけど、良い出汁が出そうだよ」と伝えると、けたけたと笑っていた。そんなところが好きだった。
 ちなみに、彼女がよく食べるものはスープだ。
 食べても太らないではなく、本当に少食な人で僕は不安だった。その日、彼女が僕の家に置いて行ったのはミネストローネで、赤いスープが不気味な魔法のスープみたいに見えた。

 温め直したミネストローネを飲んでいると、彼女の友人から連絡が入った。
 階段から落っこちたということだった。どうみてもクッション性のない彼女は硬いコンクリートに骨が負けてしまった。僕が病院に着くと、彼女は眠っていた。
 初めて彼女の母親に挨拶した。ぶくぶくに太っていた。彼女が鶏ガラなら、母親は豚骨と呼べるかもしれない。僕が頭を下げると、顎肉を揺らしてけたけたと笑っていた。
「3段ちょっとの階段でこんなに骨折するなんてねぇ」
 母親の笑い方は彼女に似ていた。
 笑いごとではないが、笑う彼女の母親に合わせて口角を上げた。凝り固まった表情筋を意識させられた。


 自分の部屋に戻る前にスーパーマーケットに寄っていた。
 一羽分の鶏ガラとネギと生姜。
 鶏ガラを洗い、骨を切った。なかなかに切れず、安物の包丁に精一杯力を入れた。
 それとネギと生姜を中くらいの鍋にぎちぎちに入れて、無言で煮込んでいた。
 浮いてくる灰汁を取ると、黄色くて透明な汁が見えてくる。
 いつまで煮込めばいいかわからなくて、コンロの前に椅子を置いて一晩弱火にかけた鍋を見ていた。
 水分が減ると水を足してみた。薄まる謎の汁。僕はレシピを見ずに、鶏ガラスープらしきものを作っていた。

 ネギも鶏ガラも柔らかくぐしゃぐしゃになっていた。なんとなしに黒胡椒を振りかけても、ラーメン屋の美味しそうな匂いはしない。しかし、ザルでこしたら金色のスープが出来ていた。それを水筒に入れ直し、僕は彼女の病院に走った。


 病院は9時から開くが、面会時間はまだだ。僕は患者のような顔をして、正面玄関から入り、彼女の病室まで向かった。看護師が忙しなく動くなかを平然とすり抜けていった。
 彼女は上体を起こして、パンを齧っていた。彼女がパンを齧るのを見るのは初めてだった。僕が呆然と立っていると、彼女は僕に気付いた。
「面会時間はまだだよ」
 朝の挨拶もなく、ノーメイクの彼女は困ったように笑った。
 僕は泣きそうになった。昨日の死体のように、布に包まった彼女が笑いかけたからだ。
「もう立てるの?」
「無理に決まってるじゃん」
 彼女は掛け布団に隠された脚を撫でた。
「でも、また歩けるよ」
 3口ほどパンを齧ると、もう残そうとしていた。パックの牛乳も嫌そうに眉をひそめて飲んでいた。ああ、僕の知っている彼女だなと妙に安心した。
「何しに来たの?木曜日は朝から講義でしょう?」
「そうだった」
「この病院から大学までじゃ、もう間に合わないね」
 悪いことをしたねと、彼女はけたけたと笑う。
「心配したんだ」
「死んだ連絡でもあるまいし」
「君は死に近すぎる気がする」
「死んでないから、まだ遠いものだよ」
 二人でいつものように笑った。僕は体から力が抜けていくような感覚に襲われながら、サイドテーブルに水筒を置いた。
「何それ?」
 僕は真剣に水筒についたカップに金色の液体を注いだ。少しだけ湯気が立った。消毒液の病室には似つかわしくないあの匂い。自分の部屋では感じなかったあの匂い。
「飲んで」
 僕は彼女にカップを渡した。彼女は不思議そうにカップを覗き、おずおずと口に含んだ。
「スープ!」
 彼女は噴き出すようにその名を叫んだのだった。