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時計

 

「落としましたよ」

 

 後ろから、とんとんと肩をつつかれ、振り向くと老人が時計を渡してきた。

 

 渡されたら、人はつい手に取ってしまう。

 

 確認すると、それは見たことのない金色の懐中時計だった。私のものではない。

 

「私のじゃないです」

 

 返そうとすると、老人は消えていた。

 

 老人も意外と足が速い。いや、物音も立てず現れた老人である。達人か。

 

 どこか仙人じみた爺さんから渡された懐中時計を私は鞄にしまった。

 

 ねこばばではない。私は取引先に急いでいたのだ。

 

 私はその懐中時計で時間を見ながら、駆けだした。針は十時三十二分をさしている。

 

 十一時前に取引先に着きたいのだ。

 

 

 

 

 

 しかし、ヒールで走ったせいか、転倒した。

 

 なぜ、人は走るのか。急いでいるからだ。妙にスローモーションに感じられる一瞬のつまずきのなか、そんなことを思っていた。

 

 気付いたときには、両手をついて四つん這いの形になっていた。肩に掛けた鞄は落ちなかった。

 

「落ちましたよ」

 

 男子高校生が例の懐中時計を拾って手渡してくれた。

 

「ありがとうございます」

 

 転倒した恥ずかしさもあり、自分のものでもない懐中時計を手にし、立ち上がった。

 

 パンツスーツでよかったと思った。膝の白い汚れを払い、私はそそくさと男子高校生の元を去った。

 

 そのとき、渡された懐中時計の針は十時四十五分をさしていた。

 

 

 

 

 

 どうにか、取引先に辿り着くもエレベーターがメンテナンス中らしかった。

 

 行きかう人々はエレベーターの前に立ち止まり、仕方なく階段を使っている。私も渋々それに倣い、非常階段を目指した。

 

 先ほど転んだ膝の痛みがじわじわと感じられる。泣きそうになりながら四階の事務所に向かった。

 

 階段を登り切ろうとしたところで、ショルダーバッグの肩紐が手すりに引っかかった。

 

 またかよと思うも、本能が転倒を防いでいた。鞄は落ちていき、私の空いた右手が手すりを握っていたのだ。死なずに済んだと安堵するなか、落下するショルダーバッグを見送った。

 

 三階の踊り場に落っこちたショルダーバッグを拾いに降りると、声をかけられた。

 

「危なかったですね」

 

「無事です。ご心配をおかけして」

 

 顔を見ると取引相手の田中さんだった。

 

「落ちてましたよ」

 

「はい?」

 

 ハンカチか何かかと思えば、また例の懐中時計だった。

 

 これは私のものではないですと喉元から出かかったが、懐中時計は十一時五十五分を示していた。

 

「お待たせしてすみません」

 

「いえいえ、いい時間だよ。というか、大怪我しなくてよかったよ」

 

「ははは」

 

 もう怪我はしている、なんて言えるはずもなく私と田中さんは事務所に向かった。

 

 自然と懐中時計は私の鞄へと戻っていった。

 

 

 

 

 

 取引は問題なく終わり、会社に戻る前にコンビニで昼食にサンドイッチを買おうとした。

 

 横長の財布を取り出すときに、懐中時計のチェーンが引っ掛かり床に落ちた。

 

「落ちたよ」

 

 お菓子を手に持った少年が懐中時計を差し出してきた。

 

 内心やれやれと思いながら、礼を言い受け取った。

 

「ありがとうね」

 

 懐中時計は十二時半を示していた。

 

 

 

 

 

 会社に戻り、サンドイッチを食べながら、今日の出来事を振り返っていた。

 

 例の懐中時計は馴染みのマグカップの横にある。

 

「こいつ、落ちてばっかだな」

 

 しかし、懐中時計は傷一つなく綺麗なままだ。

 

 裏返すと、背面にイニシャルが彫られている。「SS」とは誰のことだろうか。

 

 首を傾げていると、背後から上司が言う。

 

「あ、俺のじいちゃんの形見」

 

 私は怪訝な目で上司を見た。

 

「落ちましたよ」

 

 ついに私が言う番らしい。

 

 

 

 

 

 

 

 簡単に形見を落とす上司に驚いた。

 

 上司は悪びれずに続ける。

 

「じいちゃん、仙人みたいな人だったな。めっちゃ足速くてさ……」

 

「ご存命では」

 

「形見って言ってるだろうよ」

 

「いつ、お亡くなりに?」

 

「五年前。ちょうど時計が止まってる時刻に交通事故でさ」

 

「え?」

 

 時計の針は十時三十二分をさしていた。