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親知らず

 親知らずを抜いた帰り道、抜いた歯をどこか遠くに投げたいと考え、私は腫れた顔でタクシーを捕まえた。

 行き先を聞かれ、ぼんやりと考えた。麻酔の効いた口の中は、舌で触れることが憚られる空洞ができている。だから、咄嗟に答えてしまった。

「トンネルを抜けてください」

 漠然とした要望に、運転手は少し考えながら、ナビを弄り始めた。聞いたことのない地名だ。

「遠いですか?」

「近くはありませんね」

「それなら、お願いします」

 ゆるやかに車は動きだし、やがて高速道路に乗り込んだ。

 タクシーの中を流れるラジオは古い洋楽だ。さっぱり歌詞の意味がわからないが、私は高揚していた。冒険の始まりに相応しい、高い声が歌っている。きっと応援してくれている。私の親知らずの行く末を。


 トンネルが見え始めた。

 もう遠くまできている。

 トンネルを抜けると何があるのか。何もなくても、何もないがある。前向きに正面を見据え、ごうという音とともにトンネルに入った。均等に見えるオレンジ色のライトが流れていく。光が指す方へとじわじわと近付いていくときもまた興奮する。



 抜けた。

 先ほどの道路と大差ないが、新たな一歩を歩んだ気になってくる。

「窓を少し開けてもらえませんか」

「いいですよ」

 同時にウィンドウが開いた。暖かい風が前髪を揺らした。


 私は隙間から親知らずを投げた。

 草むらにぽとりと落ちた、けれど、タクシーは止まることなく進んでいく。


「親知らずの行方、私も知らず」

 ふと、口から出た言葉に運転手は言う。

「それは露知らず」




 山の麓の駐車場まで行き、タクシーはUターンした。

 遠ざかる山を振り返り、口の中の空洞を舌で撫でた。

 それほど深くない穴だった。