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祖父の話

 生温い風が憎らしくて、窓をまた閉めた。ぼんやりとする頭で、期限切れの牛乳をシンクに捨てる。白い液体が排水口へ流れていく。今朝も電話は繋がらず、僕と社会には隔たりがある。時計を見るのが怖くて、空の明るさを知るのも嫌で、僕にまだ名前があることも煩わしい。

 祖父は僕を見て、死んだ父の名を呼ぶ。


「隆平、庭を見てこい」

「隆平、草が伸びとる」


 僕はりゅうへいではない。

 祖父は起きながら、夢を見ている。部屋に籠ると、決まってドアをバンバンと叩く。

「まだ寝とるんか!隆平!」

 父の写真を見ても、僕と似ているようには思えない。僕は母に似ている。


 父との記憶はわずかしかない。祖父の語る息子の「隆平」は僕にとって知らない人間だ。

「起きんか、隆平」



 何度も隆平を呼ぶ。

 僕は自分の名前を忘れたように錯覚する。いっそ、父になろうか。そう思い付いたときには、返事をしていた。

「父さん、起きてるよ」

「隆平、仕事は?」

「今日は休暇だよ」

 今のところはずっと休暇なのだが、自然と嘘が口をついた。

「なら、釣りに行くか?」

「へ?」

 この家に釣り道具があることを知らなかった。古めかしい木の釣竿と絡まった釣糸とバケツを持って、僕と祖父は近くの川へと向かった。


「餌は?」

 無言で祖父は川縁の石を動かした。小さなミミズを捕まえると、直接釣り針に刺す。ミミズはまだぐねぐねと動いている。

「きもっ」

「まだ虫があかんのか」

 笑って祖父は釣竿を振った。上手く遠くに飛んだ釣糸を見て、僕も同じように釣竿を振った。あまり飛ばなかった。

「どんくさいな」

 祖父は自分の釣竿を地面に置いて、僕の釣竿を代わりに振った。遠くで二つの赤いウキが浮いている。



 汗をかきながら、ウキを見ていた。

 ぷかぷかと浮いた赤いボールを祖父はじっと見ていた。雲も空も動いていないように思えた。

「釣れるの?」

「辛抱や」

「しんぼう」

 繰り返しても、僕にはない。

「母ちゃんも辛抱しとった」

 祖母は僕の生まれる前にすでに亡くなっている。

「母ちゃんに旨い魚を食わせたろう」

 控えめに頷いて、僕もウキを見ていた。

 川の流れに気を付けながら、祖父と僕は釣竿を握る。ときどき、釣竿を少し上げて、ミミズを確認する。もう死んでいる。



 一時間経って、僕は音を上げた。

「釣れないよ」

「まだや」

 釣竿を引き上げても、祖父はまだ粘っていた。自販機でペットボトルのお茶を買い渡すと、礼も言わず半分ほど飲んだ。

「まだや、隆平」

「まだ辛抱や」

 独り言のように祖父は呟く。僕はもう返事をしなかった。



 太陽が真上に来ているとき、小さくぽちゃんと音がした。ようやくウキが沈んだ。

 巻き取り式でもない釣竿なので、ただ上に持ち上げる。小さな魚が針に掛かっていた。

僕の目の前に魚を持ってくるものだから、つい避けた。頬に飛沫が当たった。

「雑魚やな」

 魚の種類はわからないが、なんとなく小物であることはわかる。大物には程遠い。

「食べられるの?」

「食うても、まずい」

 一時間と少しの収穫を祖父はぽいと川に戻した。だが、一匹でも釣れたことに満足したのか釣り道具を片付け始める。慣れた様子でしわしわの手は動いている。

「帰るで、真平」




「……え?」

 祖父は家とは反対の方に帰ろうとする。

 僕は祖父の体を引っ張り、正しい方向に体を向けさせた。

「あっちとちゃうんか?」

「こっちが近道だよ」

「そうか」

 大股で祖父は僕の前を歩いていく。

「じいちゃん」

「なんや、隆平」

「牛乳いる?」

「大きくなれんで」


 祖父の背中に話しかける。

「夕方に買ってくるよ」

 飲みきれないとわかっていても、僕はまた牛乳を飲むのだろう。

(了)