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鳥のように、あるいは犬のように

「ミドリちゃんが落ちたんだってさ」

 机の向きを変えて給食を囲む私たちの話題はいつも落としどころのないものだったから、その不穏なニュースはちょうどよく胸をざわつかせた。

「受験に?」

「ベランダからだって」

「大丈夫なの?」

 どれだけお腹を満たしても、刺激には飢えていた。


 ミドリちゃんは名前に緑が二つも付く。緑川美鳥。妹の名前は緑川陽菜。再婚した相手の名字が緑川で、奇跡の不運だと教えてくれた。その不運に、落下事故の不幸が重なる不思議。不がたくさんあるなと思いながら、冷たい食パンを口に入れ、牛乳で流し込んだ。

 四階のベランダから落下したこと、無事であること、今は病院にいることなどが話から把握できた。話題の提供者であるシホちゃんによると、今朝の登校班についてきたシホちゃんのママと下級生のママが話していたらしい。ひそひそ話から、この話題は秘密なのだと悟り、昼まで暖めていたという。秘密じゃないのかと思いつつも、ミドリちゃんについては気になるので、私もシホちゃんに疑問を投げかけた。

「でも、ミドリちゃんのマンションの部屋って二階だよ?」

 班のみんなの視線が集まり、気まずくなって目を反らした。けれど、ミドリちゃんの家で遊んだことがあるので間違いない。

「おかしいね」

「やっぱりおうちで嫌なことでもあったのかな」

 突然に名字が変わる子は最近多い。多いと言ってもそんなに多くはないけれど、ママの言葉を借りるなら「よくあること」だ。みんなが暗に言いたいのはそういうことで、なんとしても家庭のトラブルと絡めてしまいたいかんじがした。不運と不幸と不思議に続いて、不謹慎という言葉も浮かんだ。

「お見舞いにいかなきゃだめじゃない?」

「病院がどこかわからないよ」

「そっとしておいてほしいって」

 みんなの言葉をよそに、返却する食器を持って立ち上がった。銀色のケースに食器を片付けて、あらかじめ開けておいた牛乳パックをもって廊下へ出た。手洗い場で牛乳パックを軽くすすぐと、薄い白色が排水口に流れていく。これを見ているほうが教室にいるよりよっぽど楽しい気がする。

 教室に戻ると、三人はまだ食べていた。ミドリちゃんも給食を食べるのが早い。ようやく追いついた寂しさを誤魔化すために、ランチョンマットを畳んで巾着袋にそそくさとしまった。

 午後の授業を聞き流して、家に帰っても、気持ちが晴れないままだった。それでも机の引き出しを開けて、以前もらった年賀状を掘り起こした。ミドリちゃんの年賀状には電話番号が印刷されていた。見付けたけれど、電話をかける勇気はない。つらい事実を受け止める覚悟なんてない。声を聞きたいのに、知りすぎるのが怖かった。考え事を始めると部屋の中をぐるぐると回ってしまう。尻尾を追いかける犬みたいだとママにはよく言われる。犬は考えていないはずなので、失礼な話だ。ただ、いてもたってもいられない。そうしていると、充電中のゲーム機と目が合った。テレビに繋げても、携帯ゲーム機としても遊べる優れものだ。

 病院にいるはずだが、通信はできるのだろうか。確証はないけれど、いつもミドリちゃんとやっているゲームを起動した。遊び始めると勝手にフレンドに通知がいく。繋がるかは運任せだが、なにもしないよりかはいい。私とミドリちゃんの距離は近いようでちょっと遠い。不便に感じつつ、ゲーム機にイヤホンを挿し込み、耳に装着した。


 ゲームの中の街を抜けると、緑の揺れる広大な世界がある。枯れることのない大地は平穏で、まだそんなに強い敵も出てこない。ダッシュのボタンを押して駆けていく。果てがないようで、果てがあることを私はとっくに知っている。それでも部屋の中より広い、夢のような世界がある。臆病で一歩も踏み出せない自分を忘れさせてくれるのがゲームだった。けれど、今は自分に呆れて、腹が立って、目の前の岩を攻撃した。軽快な音で岩が砕けた。また駆けだそうとしたとき、ピコンと馴染みの音がした。

 ミドリちゃんが手を振っている。正しくはミドリちゃんのアバターが手を振るモーションを見せている。また会えたことが嬉しくて、画面がぼやけて見える。急いで、こちら側のマイクをオンにした。

「ミドリちゃん! 大丈夫なの?」

 上擦った声で問いかけると、ミドリちゃんの間の抜けた声がした。

「え、大丈夫だよ?」

「四階から落ちたって聞いた」

「あぁ、それね。下に駐輪場の屋根があって助かった」

 マンションの周りの配置を思い出してみる。たしかに、ベランダ側には自転車置場があった。

「でも、病院にいるって」

「念のために検査で学校を休んじゃったけど、どこの骨も折れてなかったよ。奇跡だと思った!」

 ミドリちゃんは興奮気味に、一瞬空を飛んだこととかなり痛かったことと、ほぼ無傷で事故から生還したことを話してくれた。明るい声とミドリちゃんの幸運を会ったこともない神様に感謝したくなる。

「でも、どうして四階に?」

「あれ? おばあちゃんの家が四階なんだけど、言ってなかったっけ?」

「聞いてない」

「おばあちゃん家でひなちゃんとボール遊びをしてたんだけど、ボールがベランダに転がっちゃって……」

 まだ小さいひなちゃんと白っぽいベランダを想像する。隙間から落ちてしまうかもしれない。

「それで、ひなちゃんが柵に向かって走り出したから、私も追いかけてダッシュしたら、勢いあまって下に落ちちゃった」

「え、うそ? ていうか、ひなちゃんは?」

「落ちてないよ!」

「よかった……」

「でしょ! だから、これはひなちゃんを守った名誉の負傷」

「ほぼ無傷なのに?」

 ミドリちゃんが噴き出すと、一緒にミドリちゃんの分身も笑っていた。私も肩の力が抜けていくのがわかる。大きく安堵の息を吐いて、ゲーム機を一旦机に置いた。

「心配したんだよ」

「ごめん。まさか、そんなに心配されるとは」

  ミドリちゃんは心配されたことが、何故だか少し嬉しそうだった。

「本当に大丈夫なの?」

 みんながスキャンダルとして語るミドリちゃんの家がやっぱり私も気になっていた。

「家族のことなら平気。おばあちゃんがみんなに謝ってたのがなんだか申し訳なかったけどね。お母さんはバカって怒ってたけど、無事でよかったって言ってて。それで、おじさん、……お父さんがお母さんより泣いててさ、ひなのためにありがとうって何度も言ってくれた」

 ミドリちゃんが新しいお父さんを「お父さん」と呼ぶのを初めて聞いた。

「それに、アカネちゃんも泣くほど心配してくれたもんね」

「泣いてないよ!」

「いや、泣いてたでしょ!」

 私の顔は見えていないはずなのだが。


 くだらないことを言い合って、私たちはまた冒険に夢中になった。

 怪しい森を抜け、洞窟へ。廃墟へと刺激を求めていく。時々、岩を破壊し、経験値のために敵を倒し、今日もレベルがひとつ上がった。まだ長くは生きていないけれど、これから先もゲームのようだったらいいのにと二人で笑った。楽しい声に溢れ、不安は安心へと変わっていく。ミドリちゃんなら、きっと大丈夫。誇り高き不屈の戦士なのだから。


(了)